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サーグッド・マーシャル

サーグッド・マーシャル

Thurgood Marshall

アメリカ | 1908年生まれ

ボルティモアの貧しい家庭に生まれた。人種隔離の壁を乗り越えて全米黒人地位向上協会(NAACP)の弁護士となり、最高裁で32件の訴訟を弁論した。

""In recognizing the humanity of our fellow beings, we pay ourselves the highest tribute." (Supreme Court opinion)"

彼らの物語

想像してみてください。ボルティモアの街を、一人の若者が歩いています。手持ちのお金はほとんどありません。学校の前を通りかかっても、肌の色を理由に、そこへ入ることは許されません。街のざわめきに路面電車の音が重なり、人種隔離の決まりが、目に見えない鉄格子のように行く手をふさいでいます。若者の名は、サーグッド・マーシャル。世の中は彼に、こう言い続けていました。「君の来るところじゃない」

人種によって分けられた教室で、彼は幼いころから、不正義がいつも大きな音を立てて現れるわけではないと知ります。ドアの貼り紙が静かに告げる拒絶。古くなり、ばらばらになりそうな教科書。自分で選ぶ前から決められているような将来。彼はもがき、つまずきます。生まれたときから力を持っていたわけではありません。彼の中にあったのは、一つの問いでした。どうして、これが当たり前でなくてはいけないんだろう。

やがて彼は、ハワード大学法科大学院へ進みます。重いプレッシャーのなか、自分の人生がかかっていると感じる日々。夜遅くまで勉強し、法学誌「ロー・レビュー」の編集に携わり、刃を研ぐように考える力を磨いていきます。けれど、鋭い刃を持っていても、手元が狂うことはあります。弁護士として人種隔離と闘い始めたころ、彼は裁判に負けることもありました。想像してみてください。法廷を出ても、法律はまだ自分の行く手をふさいでいる。みなさんなら、どうしますか。諦めますか。それとも、もっと深く考え、道を探しますか。

マーシャルは、険しいほうの道を選びます。準備には細部まで気を配り、ときには執念ともいえるほど打ち込むようになります。長い時間をかけ、れんがを一つずつ積むように主張を組み立てます。そして、あとに続く人たちのためにたいまつをともすように、若い弁護士たちを育てていきます。

そして1936年、物語が大きく動きます。彼はNAACPに加わり、書類、準備書面、証拠、証言、そして歴史そのものがせめぎ合う闘いの場へ踏み出します。その後、長年にわたって最高裁判所で弁論した事件は32件。32件です。その一つひとつが、彼が押し開けようとした扉でした。

1954年、映画ならクライマックスにあたる場面が訪れます。ブラウン対教育委員会裁判です。問われたことは単純でしたが、その答えがもたらす影響は計り知れません。学校で、子どもたちを人種によって分けてよいのか。マーシャルは最高裁判所に立ち、本来なら、わざわざ擁護する必要さえないはずの真実のために闘います。そして判決が下ると、学校での人種隔離が崩れ始めます。

のちに彼は、アフリカ系アメリカ人として初めて最高裁判所の判事になります。「君の来るところじゃない」から、「ここが君の居場所だ」へ。

彼は、その歩みの根にある思いを忘れませんでした。「ともに生きる人々を、一人の人間として認めること。それは、自分自身に最高の敬意を払うことでもあるのです」。彼の助言は、暗闇の中でも揺らがずに届く声のようです。「たとえ周りの支持を得られなくても、正しいことをしなさい」

学生のみなさん。もし世の中が、鍵のかかった扉を目の前に突きつけてきたら、どうしますか。その場を立ち去りますか。それとも、錠の仕組みを学び……自分で鍵をつくる人になりますか。

学生へのアドバイス

"たとえ周りの支持を得られなくても、正しいことをしなさい。"

主な実績

1954年のブラウン対教育委員会裁判で勝訴して学校の人種隔離を終わらせ、初のアフリカ系米国人最高裁判事に